「バカの壁」という現象を通して、日本の高学歴エリートや社会に蔓延する「思考停止」の病理を深掘り。これは、与えられた目的を盲信し最短経路で処理する「処理能力」は高いものの、その目的自体を疑い立ち止まる「思考能力」が決定的に欠如している状態を指す。
財務官僚の「財政規律」に対する絶対的信念や、性差による情報解釈の違いが具体例として示され、「バカの壁」が特定のドグマに囲まれた「競技額の壁」であると説明。哲学が「知を愛する」という、自らの無知を自覚する態度から始まることをソクラテスやデカルトの例で示し、常に疑い、柔軟性を保つ「懐疑精神」こそが、閉塞した現状を打破し、真のリーダーシップを発揮するために不可欠であると訴える。
日本社会に蔓延する「思考停止」と官僚の壁
私たちは、ある目的を与えられた時に最短距離で走る「処理能力」を重視しがちですが、浜崎先生は「思考」とは、その目的自体が本当に正しいのかを立ち止まり、疑う力だと説きます。しかし、今の日本社会、特に高学歴のエリート層は、この「立ち止まり疑う力」が決定的に不足していると指摘。
財務官僚などが国民のために動かない背景には、彼らの精神構造、つまり「思考停止」が深く関わっていると述べられます。元大蔵事務次官・斎藤次郎氏のインタビューが、その実態を露呈した一例として紹介されます。
財務官僚を縛る「財政規律」というドグマ
斎藤次郎氏は、自身が財務省に入省以来、毎週のように「財政規律がいかに正しいか」という教育を受け、それが彼らの「使命」であると信じてきたことを明かします。
彼らは、戦時中の軍事国債がハイパーインフレを引き起こしたという物語を信じ込み、「赤字国債=悪」と認識。しかし、実際にはハイパーインフレは供給力不足が原因であり、彼らはその前提を疑うことをしません。
彼らにとっての「仕事」は、政治家にレクチャーし、あらゆるメディアで財政規律を啓蒙することであり、この目的に対し盲目的に突き進む姿が「思考停止」の一例として挙げられます。
「バカの壁」の正体と情報の受け止め方
養老孟司先生の著書『バカの壁』は、特定の「競技額の壁」に囲まれた状態を指します。これは、与えられた一つの目的に向け、そこに閉じこもってしまう思考を意味します。
北里大学薬学部の学生に見せた出産ドキュメンタリーの事例は、同じ情報でも、既存の枠組み(男性は保健の授業で「知っている」という思い込み)によって解釈が異なり、新たな発見を見過ごしてしまう「注意の向け方」の問題を浮き彫りにします。
私たちも無自覚に特定の「心理教」に囚われている可能性があり、常に自己懐疑し、知らないことがあると認識する柔軟性が不可欠です。
哲学の起源と「無知の知」
柔軟な思考の別名こそが「哲学」であると浜崎先生は語ります。「フィロソフィー(哲学)」は「知を愛する」という意味であり、これは「自分はまだ知識を持っていない」という自覚から始まります。これに対し、「ソフィスト」は既に知識を持っていると思い込んでいる人々を指し、柔軟性を失っています。哲学の歴史は、ソクラテスが自身の無知を自覚した「無知の知」から始まりました。
ソクラテスは、問答を通じて相手の矛盾を明らかにし、自ら真理を「生み出す」手助けをする「産婆術」を実践しました。これは、結論を急がず、立ち止まり、疑うことで本質に迫る思考法です。
現代社会に決定的に足りない「疑う心」と柔軟性
ソクラテスやデカルトの「方法的懐疑」に見られる「疑う心」や立ち止まる姿勢が、今の日本の官僚やエリート、そして社会全体に決定的に不足していると強調されます。
日本の教育は、東大王のようなクイズ番組に見られるような「一問一答型」の知識偏重であり、有機的で柔軟な知性を育むものではないと批判されます。特定の旗が振られればそちらへ向かってしまう現在の日本の状況は、まさにこの「疑う心」が欠如している証拠です。
時と場合に応じた「臨機応変さ」を失った結果が、現在の財政規律問題にも現れていると指摘します。
西洋思想に学ぶ「懐疑精神」と日本の未来
故・西辺昇先生の著書『思想の英雄たち』でも語られているように、「懐疑精神」は日本の伝統には欠如しているとされます。浜崎先生は、日本が「アメリカというバカの壁」から一度距離を取り、欧米の懐疑の作法を学ぶことの重要性を説きます。
これは、反米になるということではなく、特定の枠組みに囚われず、疑うことで真理として何が残るのかを確認し、そこを基準に時と場合に応じた枠組みを柔軟に作り直し続ける姿勢を指します。この哲学的思考こそが、閉塞した現状を打破し、日本の未来を切り開く鍵であると締めくくられています。

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