
龍眼寺の在る亀戸三丁目は昔亀戸柳島と言われ、應永2年良博大和尚が「柳源寺」を開き、後に「龍眼(げん)寺」(年月不祥)と改められた。
良博大和尚は千葉出身で、比叡山での修業を終え帰国途中、柳島で一夜を明かされたが、夢に観音菩薩が現れ、「この堂の下に汝の守るべき御本尊と村の守護神となるべき天祖の御神体を授かるであろう」とのお告げがあり、翌朝観音菩薩像と天祖の御神体を拝授し一心に祈願したところ、当時村に流行していた悪疫が一掃され、村人の求めにより一寺を建立「柳源寺」と名付けられ、本尊観音菩薩は出世・厄除観音として病気平癒や災難除けとして信仰を集めている。御神体は天祖神社にまつられている。又中興元珍は元禄の頃、全国より萩を集めその数、数百株に及び現在の2倍以上も広い境内には蓮池も有り、秋ともなれば萩が咲きみだれ、文人墨客が集まり歌や句を詠んだり漢詩を作ったりした。賑わいの模様は「江戸名所図会」「江戸砂子」にも書かれ、広重の「江戸百景」にも描かれ、「萩寺」として有名になった。芭蕉の「濡れてゆく人もおかしや雨の萩」の句碑や大納音宗長卿の「ききしより 見る目ぞまさる此の寺の 庭に散りしく萩の錦は」の碑、孝子白菊で有名な落合直文先生の「萩寺の萩おもしろし露の身の おくつきところ こことさだめむ」の歌碑など多くの歌や句が残されている。
現在は明治43年、大正6年の大水害・関東大震災・昭和の戦災等で萩も大部分無くなり戦後わずかに生き残った株を根分けして増やしたものである。
本堂は聖徳太子の夢殿を模した八角堂で、「八正堂」と称している。
縁起
龍眼寺創建は応永2年(1395年)、良博大和尚が観世音の夢告とおり、柳島辻堂の下に眠る観世音をまつり、村に流行していた疾病を平癒し、慈雲山無量院柳源寺と号した。
その後、寺の湧き水で洗顔すると目がよくなると眼病平癒の観世音として信仰を集め、龍眼寺と改名した。江戸初期には、住職が百種類もの萩を諸国から集めて境内に植えたことから、通称“萩寺”として多くの文人墨客が訪れ、「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれている。
萩寺
江戸時代より、境内に多くの萩を植えたため「萩寺」と呼ばれ、多くの文人墨客が訪れた。この寺の萩の素晴らしさを詠んだ歌碑や句碑が多く残っている。現在も萩は健在である。
布袋尊
布袋尊は七福神唯一、中国唐時代に実在した僧侶。
人生の大事、小事、怒り事、濁り事、すべてを太っ腹にしまい、常に笑みをたたえた容貌は、福福しさに溢れています。粗衣の姿は、物事にこだわらない大器をあらわし、清簾度量、家庭や交際の円満として信仰されてきました。占いや天候を予知するのが上手い事から、吉凶を司る神として、また弥勒菩薩の化身として、今も多くの信仰を集めています。
アクセス
名称 | 龍眼寺(萩寺) |
ご本尊 | 聖観世音菩薩 |
山号 | 慈雲山 |
院号 | 無量院 |
宗旨・宗派 | 天台宗 |
創建時代 | 応永2年(1396) |
開山・開基 | 良博大和尚 |
文化財 | 石造燈籠明治32年在銘一対(江東区登録文化財) 木像聖観音菩薩立像 芭蕉句碑絢堂素丸書 冬嶺市町句碑 百寿句碑 螺舎一堂句碑 万治2年銘庚申塔 水盤天明5年在銘 六角石塔 融通念仏供養像台石正徳5年在銘 水盤延享2年在銘 法華経五千部供養塔 享保18年在銘 納経塚文化3年在銘 阿弥陀供養塔元禄9年在銘 如意輪観音供養塔寛文6年在銘 六十六部廻国供養塔宝永8年在銘 |
御朱印 | あり |
住所 | 東京都江東区亀戸3-34-2 |
最寄り駅 | ◼︎東京メトロ半蔵門線 押上駅 ◼︎都営浅草線 押上駅 ◼︎東武伊勢崎線 押上駅 ◼︎京成押上線 押上駅 徒歩約19分 ◼︎東武亀戸線 小村井駅 徒歩約21分 ◼︎東京メトロ半蔵門線 錦糸町駅 徒歩約23分 |
その他 | 亀戸七福神 布袋尊 |
参考

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