ロシアとウクライナの地政学

雑学

4. ロシアとウクライナの歴史的関係

表2: ロシア・ウクライナ関係史 主要年表

年代主要な出来事ロシアにとっての意義ウクライナにとっての意義両国関係への影響
9世紀-13世紀キエフ・ルーシの成立と繁栄「ルーシの地」の起源、東方正教会の受容国家の起源、文化的・宗教的アイデンティティの源流共通の歴史的ルーツを持つが、後の歴史解釈の違いが対立の火種となる
13世紀モンゴル襲来、キエフ・ルーシ崩壊ルーシの中心がモスクワへ移行する契機長期にわたる外国支配の始まり、国家の分断ロシアとウクライナの歴史的経路の分岐点。ロシアはモンゴルの影響下で中央集権化、ウクライナはリトアニア・ポーランドの影響下へ
14世紀-17世紀ウクライナの地の大部分がリトアニア、その後ポーランド・リトアニア共和国の支配下 西方への緩衝地帯、コサックとの関係コサックの台頭と自治の希求、カトリック文化との接触ポーランド支配に対するコサックの抵抗が、ロシアとの接近を促す要因となる
1654年ペラヤスラフ協定ウクライナ(小ロシア)の「再統一」、影響力拡大の契機ポーランドからの保護を求める軍事同盟、あるいはロシアへの従属の始まり歴史認識の大きな相違点。ロシアは「兄弟民族の再統合」と捉え、ウクライナは「対等な同盟」が裏切られたと捉える傾向があり、後の関係に禍根を残す
18世紀後半ロシア帝国によるウクライナ・コサックの自治解体、クリミア併合帝国の領土拡大、黒海への出口確保自治の喪失、ロシア化政策の強化ウクライナのロシア帝国への完全な編入、民族的アイデンティティの抑圧が始まる
19世紀後半ヴァルーエフ回状、エムス勅令によるウクライナ語の出版・教育禁止ウクライナ民族主義の抑制、ロシア化の推進深刻な文化抑圧、民族的アイデンティティの危機文化抑圧が逆にウクライナの民族意識を高め、独立運動の精神的基盤を形成する
1917年-1922年ロシア革命、ウクライナ人民共和国独立宣言とソビエト・ウクライナ戦争、ソ連邦への編入ウクライナの「分離」と再編入、ソビエト体制の確立短期間の独立と喪失、ソビエト体制下での国家建設独立の夢破れ、ソ連の一構成共和国となる。しかし、民族意識は潜在的に維持される。
1932年-1933年ホロドモール(ウクライナ大飢饉)(ソ連としては)農業集団化政策の一環、穀物調達の強行数百万人が餓死する民族的悲劇、ソ連政府によるジェノサイドとの認識ウクライナ人のロシア(ソ連)に対する根深い不信感とトラウマを植え付ける。現代の紛争における抵抗の精神的支柱の一つ
1939年-1945年第二次世界大戦 ナチス・ドイツとの戦い、領土の再編独ソ戦の主戦場、甚大な被害、OUN・UPAの独立闘争ウクライナの地が再び大国の戦場となり荒廃。OUN・UPAの活動は戦後の歴史認識問題として残る
1954年クリミア半島のウクライナへの移管(ソ連としては)友好の証、行政区分の変更領土の拡大当時は大きな問題とならなかったが、ソ連崩壊後、ロシアとウクライナ間の領土問題、ロシア系住民の地位問題の火種となる
1991年ソ連崩壊、ウクライナ独立宣言帝国の崩壊、地政学的影響力の低下、在外ロシア人の問題国家主権の回復、独立国家としての再出発ロシアは独立を承認するも、クリミア、黒海艦隊、ガス問題などで両国関係は不安定化
2004年オレンジ革命親ロシア政権樹立の失敗、西側介入への警戒感の高まり民主化と西側接近への期待の高まり、ロシアからの影響力脱却の試みロシアは「カラー革命」を自国への脅威と認識し、ウクライナへの圧力を強める
2006年, 2009年ロシア・ウクライナガス紛争エネルギーを外交カードとして利用、ウクライナへの影響力維持エネルギー安全保障の脆弱性の露呈、ロシアへの経済的依存からの脱却の必要性エネルギー供給が政治的道具として利用され、両国間の不信感が深まる。欧州へのエネルギー供給にも影響
2014年マイダン革命、ロシアによるクリミア併合、ドンバス紛争勃発クリミアの「歴史的奪還」、NATO東方拡大への対抗、影響力圏の死守領土の一部の喪失、主権の侵害、国家存立の危機国際法違反の併合と武力紛争により、両国関係は決定的に悪化。ミンスク合意は履行されず、紛争は長期化
2022年2月~ロシアによるウクライナ全面侵攻「特別軍事作戦」によるウクライナの非軍事化・中立化、ドンバス「解放」など国家存亡の危機、全土での戦闘、甚大な人道的被害第二次世界大戦後ヨーロッパ最大の戦争。国際秩序への深刻な挑戦。国際社会による対ロ制裁とウクライナ支援が続く

4.1. キエフ・ルーシと共通の起源

ロシアとウクライナの歴史的関係の原点は、9世紀に現在のウクライナの首都キーウ(キエフ)を中心として成立した東スラブ人の国家、キエフ・ルーシ(キエフ大公国)に遡ります。キエフ・ルーシは、スカンディナヴィアから来たヴァリャーグ(ヴァイキング)と現地スラブ人の融合によって形成され、10世紀末にはウラジーミル大公(ヴォロディーミル大公)による東方正教会の受容を通じて、ビザンツ文化圏の一翼を担う国家へと発展しました。当時のキーウは「ルーシの諸都市の母」と称され、ドニプロ川を通じた交易の拠点として栄え、東ヨーロッパにおける政治・経済・文化の中心地でした。このキエフ・ルーシの時代は、現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の共通の文化的・宗教的基盤が形成された時期とされています。

しかし、この「共通の起源」という歴史認識は、現代のロシアとウクライナの関係において極めて複雑な意味合いを帯びています。ロシア側、特に現在のプーチン政権は、キエフ・ルーシをロシア国家の直接的な起源と捉え、ロシア人とウクライナ人は歴史的に「一つの民族」あるいは「兄弟民族」であるという言説を強調する傾向があります。この歴史観は、ウクライナに対するロシアの歴史的な権利や影響力を正当化し、ウクライナの国家としての主権や独自の民族的アイデンティティを相対化しようとする試みと結びついています。

一方、ウクライナ側は、キエフ・ルーシを自国の歴史的・文化的遺産の核心と位置づけつつも、その後のモンゴル襲来やリトアニア・ポーランド支配といった独自の歴史的経験を経て、ロシアとは異なる独自の民族意識と国家アイデンティティを育んできたと主張します。ロシアによる「共通の起源」論は、ウクライナの主権を軽視し、ロシアの影響下に置こうとするためのプロパガンダであると強く反発しています。このように、キエフ・ルーシという共通の歴史的出発点を持ちながらも、その解釈と現代への接続の仕方において、両国間には埋めがたい歴史認識の溝が存在し、これが現在の両国間の深刻な対立の思想的背景の一つとなっています。

4.2. モンゴル襲来とリトアニア・ポーランド支配

13世紀半ば、東方から襲来したモンゴル帝国軍によって、キエフ・ルーシは壊滅的な打撃を受けました。1240年には首都キーウが陥落し、ルーシの政治的・経済的中心は北東のウラジーミル・スーズダリ公国、そして後のモスクワ大公国へと移っていきました。このモンゴル襲来は、東スラブ世界の歴史における大きな転換点となり、ロシアとウクライナが異なる歴史的経路を辿る直接的な契機となりました。

モンゴルの支配(タタールのくびき)が続く間、現在のウクライナの地の大部分は、14世紀以降、西方のリトアニア大公国の影響下に入り、その後ポーランド王国との合同(ルブリン合同、1569年)によって成立したポーランド・リトアニア共和国の支配下に置かれることになります。この時代、ウクライナの貴族層はポーランド文化の影響を強く受け、カトリックへの改宗も進みました。一方で、ドニプロ川中流域を中心に、ポーランド・リトアニア共和国の支配に反発するコサックと呼ばれる自由な戦士集団が形成され、独自の自治と文化を発展させていきました。

このリトアニア・ポーランド支配の時代は、ウクライナにとって西ヨーロッパのルネサンスや宗教改革といった文化的潮流に触れる機会をもたらした一方で、ポーランド貴族による社会経済的抑圧や、正教徒であるウクライナ農民とカトリック教徒である支配層との間の宗教的対立も深刻化しました。モスクワを中心とするロシアが東方正教会を精神的支柱として独自の国家形成を進めたのに対し、ウクライナは西方のカトリック文化圏との接触と対立の中で、複雑なアイデンティティを形成していくことになります。この歴史的経験の違いが、後のロシアとウクライナの文化的・社会的な差異を一層深める要因となりました。

4.3. ペラヤスラフ協定とロシア帝国への編入

17世紀半ば、ポーランド・リトアニア共和国の支配に対するウクライナ・コサックの大規模な反乱(フメリニツキーの乱、1648年~)を指導したヘーチマン(コサックの指導者)、ボフダン・フメリニツキーは、長期化する戦いの中で強力な支援者を求めました。当初はクリミア・タタールと同盟を結んでいましたが、より安定した保護を求めて、同じ正教を奉じるモスクワ・ロシアに接近しました。そして1654年、フメリニツキーはペラヤスラフ(現在のペレヤスラウ)において、ロシアのツァーリ(皇帝)アレクセイ・ミハイロヴィチに忠誠を誓い、その保護下に入ることを受諾しました。これがペラヤスラフ協定です。

このペラヤスラフ協定の歴史的評価と解釈は、ロシアとウクライナの間で著しく異なります。ロシアの歴史学では伝統的に、これをキエフ・ルーシ以来離れ離れになっていた「兄弟民族」であるロシア人とウクライナ人の「再統一」と捉え、ロシアの歴史的正当性とウクライナに対する保護的役割を強調する傾向があります。一方、ウクライナの歴史学では、この協定をポーランドからの独立を維持するためのやむを得ない「軍事同盟」あるいはロシアによる「保護領化」の始まりと見なし、コサックの自治権が徐々にロシアによって侵害されていった過程を重視する傾向があります。協定の原文が現存しないことも、解釈の多様性を助長しています。

結果として、この協定はウクライナがロシア帝国の影響下に段階的に組み込まれていく出発点となりました。17世紀後半から18世紀にかけて、コサック・ウクライナ(ヘーチマン国家)の自治権は徐々に縮小され、エカチェリーナ2世の時代には完全にロシア帝国の一部として併合されました。ペラヤスラフ協定を巡る歴史認識の対立は、単なる学術論争に留まらず、現代に至るまで両国間の主権問題や相互不信の根源の一つとして、繰り返し政治的な文脈で利用されています。ロシアの「再統一」史観は、ウクライナの主権を軽視し、ロシアの影響力行使を正当化する論理として機能してきた一方、ウクライナの「軍事同盟」あるいは「裏切り」史観は、ロシアに対する警戒心と独立志向を強める根拠となってきました。

4.4. 帝政ロシア時代のウクライナ文化抑圧

18世紀後半にウクライナの大部分がロシア帝国の版図に組み込まれると、ロシア政府はウクライナの独自性を抹消し、ロシアへの同化を推し進める政策を強化しました。特に19世紀後半になると、ウクライナ民族意識の高まりを警戒した帝政ロシアは、ウクライナ語と文化に対する系統的な抑圧策を講じました。

その代表的なものが、1863年に内務大臣ヴァルーエフが発した通達(ヴァルーエフ回状)と、1876年に皇帝アレクサンドル2世が発布したエムス勅令です。ヴァルーエフ回状は、「ウクライナ語は存在せず、過去にも存在せず、将来も存在し得ない」という有名な一節とともに、ウクライナ語による学術書や宗教書以外の出版を事実上禁止しました。さらにエムス勅令は、この規制を強化し、ウクライナ語によるあらゆる書籍の出版・輸入、ウクライナ語の演劇や音楽公演、さらにはウクライナ語の歌詞を含む楽譜の印刷までも禁止するという、極めて厳しい内容でした。学校教育におけるウクライナ語の使用も厳しく制限され、ロシア語化が強制されました。

これらの文化抑圧政策は、ウクライナ語の公的な地位を著しく低下させ、ウクライナ文化の発展に深刻な打撃を与えました。多くの知識人や文化人が活動の場をオーストリア=ハンガリー帝国領内のガリツィア地方(比較的ウクライナ文化への寛容度が高かった)に移さざるを得なくなるなど、ウクライナの知的・文化的資源の流出も招きました。

しかし、このような厳しい抑圧は、皮肉なことにウクライナ人の民族意識を地下で育み、かえって強化する結果も生みました。言語と文化は民族アイデンティティの核心であり、その危機感がウクライナ人の間にロシア帝国からの独立への強い希求を醸成する精神的基盤となりました。公の場での表現が封じられる中で、ウクライナの言語、文学、歴史、民俗は家庭や非公式な集まりで密かに継承され、民族の記憶として生き続けました。この文化防衛の戦いが、20世紀初頭のウクライナ独立運動へと繋がる重要な伏線となったのです。

4.5. ソビエト連邦時代とホロドモール

20世紀初頭のロシア革命(1917年)と第一次世界大戦の終結は、帝政ロシアの崩壊をもたらし、ウクライナは一時的に独立を宣言する機会を得ました(ウクライナ人民共和国など)。しかし、この独立は長続きせず、ロシアのボリシェヴィキ政権(後のソビエト連邦)との激しい戦争(ソビエト・ウクライナ戦争)を経て、ウクライナの大部分はソビエト社会主義共和国としてソ連邦に組み込まれることになりました。

ソビエト連邦時代、ウクライナは大きな変革と苦難を経験しました。特にスターリン体制下の1930年代初頭には、ウクライナにとって最大の悲劇の一つであるホロドモール(「飢餓による殺人」の意)が発生しました。1932年から1933年にかけて、ソ連政府による強引な農業集団化政策と過酷な穀物徴発の結果、ウクライナの農村部を中心に数百万人が餓死するという未曾有の大飢饉が引き起こされました。ウクライナでは、このホロドモールは単なる自然災害や政策の失敗ではなく、スターリン政権によるウクライナ民族に対する意図的なジェノサイド(民族抹殺)であったと広く認識されており、現代のウクライナ・ロシア関係に深い傷跡と不信感を残しています。

ホロドモールは、ソ連中央政府によるウクライナ民族に対する抑圧政策の極端な現れとウクライナでは解釈されており、ロシア(ソ連の後継国家)に対する根深い不信感と、国家主権の維持への強い渇望の源泉となっています。この歴史的トラウマは、ウクライナ国民の民族的記憶に深く刻まれ、自国の独立と主権を守り抜くという強い意志を形成する上で重要な役割を果たしてきました。2022年のロシアによる全面侵攻に際しても、多くのウクライナ国民にとってホロドモールの記憶は、ロシアの侵略行為に対する抵抗の精神的支柱の一つとなっていると考えられます。歴史的トラウマが、現代の紛争における国民の抵抗精神に大きな影響を与えているのです。

4.6. 第二次世界大戦とウクライナ

第二次世界大戦(1939年~1945年)において、ウクライナはナチス・ドイツとソビエト連邦という二つの全体主義国家間の主要な戦場となり、甚大な人的・物的被害を受けました。1939年の独ソ不可侵条約秘密議定書に基づくポーランド分割により、ウクライナ西部はソ連に併合されましたが、1941年6月のドイツによるソ連侵攻(バルバロッサ作戦)開始とともに、ウクライナ全土がドイツ軍の占領下に置かれました。

この戦争中、ウクライナ人は複雑な立場に立たされました。多数のウクライナ人がソ連赤軍に動員されナチス・ドイツと戦った一方で、一部のウクライナ人はドイツ軍に協力する形で戦闘に参加しました(例:第14SS武装擲弾兵師団「ガリーツィエン」)。また、ウクライナ民族主義者組織(OUN)やその軍事部門であるウクライナ蜂起軍(UPA)は、当初ドイツをソ連からの解放者と期待し協力しましたが、ドイツがウクライナの独立を認めないことが明らかになると、ドイツとソ連の双方に対してウクライナの独立を目指す武装闘争(パルチザン活動)を展開しました。OUN-UPAの活動は、ソ連からの独立を目指すものでしたが、同時にポーランド人住民との間で深刻な対立を引き起こし、特にヴォルィーニ地方では多数のポーランド人民間人が犠牲となる事件(ヴォルィーニ虐殺)も発生しました。

第二次世界大戦の結果、ウクライナの領土はソビエト・ウクライナ社会主義共和国として再編され、戦後の国境線がほぼ確定しました。しかし、戦争がもたらした破壊と、OUN-UPAのような民族主義運動の複雑な歴史は、戦後のウクライナ社会における歴史認識や英雄像を巡る議論に大きな影響を与え続けています。特に、OUN-UPAの活動に対する評価は、ウクライナ国内でも地域や立場によって大きく異なり、また、ポーランドやロシアとの間でも歴史認識問題として現代の国際関係に影を落としています。ロシアは、OUN-UPAの活動を「ナチス協力」と一方的に断じ、現在のウクライナ政権を非難するためのプロパガンダとして利用しており、歴史的出来事が現代の紛争における情報戦の道具として使われている状況が見られます。

4.7. ソ連崩壊とウクライナ独立

1980年代後半からのソビエト連邦におけるペレストロイカ(改革)とグラスノスト(情報公開)の流れは、各構成共和国における民族意識の高揚と独立への動きを加速させました。ウクライナでも、1989年に民族主義的な政治団体「ルフ(ウクライナ人民運動)」が結成され、主権回復と民主化を求める声が強まりました。そして1991年8月24日、ウクライナはソ連からの独立を宣言し、同年12月1日の国民投票では90%以上の圧倒的多数が独立を支持しました。ロシア連邦は、ソ連崩壊直後の1991年12月5日にウクライナの独立を承認しました。

しかし、独立後のウクライナとロシアの関係は、当初から多くの複雑な問題を抱えていました。主な懸案事項としては、以下の点が挙げられます。

  • クリミア半島の地位問題: 歴史的にロシアとの繋がりが深く、ロシア系住民が多いクリミア半島の帰属は、両国間の最大の火種の一つでした。ソ連時代の1954年にロシアからウクライナに移管された経緯があり、ロシア国内にはその決定への不満が根強く残っていました。
  • 黒海艦隊の分割問題: ソ連黒海艦隊の主要基地であるセヴァストポリ港がクリミア半島に位置していたため、艦隊の資産分割と基地の使用権問題は、両国の安全保障に直結する重要課題でした。長年の交渉の末、艦隊は分割され、ロシアはセヴァストポリ港を租借する形で黒海艦隊を駐留させ続けることになりました。
  • 国境画定問題: ソ連時代の行政境界線がそのまま国境線となりましたが、一部地域では領有権を巡る潜在的な対立要因が残りました。
  • エネルギー供給問題(ガス紛争): ウクライナはロシアからの天然ガス供給に大きく依存しており、その価格設定や通過料を巡っては度々「ガス紛争」が勃発し、ヨーロッパへのガス供給にも影響を与えるなど、経済的・政治的な緊張の原因となりました 。

これらの問題の根底には、ソ連崩壊後のロシアが、ウクライナを完全に独立した主権国家として尊重するよりも、依然として自国の「影響圏(near abroad)」と見なし、その内政や外交に影響力を行使しようとする姿勢があったと指摘されています。ウクライナがNATO(北大西洋条約機構)やEU(欧州連合)といった西側諸国への接近を強める動きは、ロシアにとって自国の地政学的利益と安全保障に対する脅威と映り、これが両国関係の不安定化と度重なる緊張、そして最終的には紛争へと繋がる根本的な要因となったと言えます。

4.8. オレンジ革命、マイダン革命とロシアの反応

ソ連崩壊後のウクライナでは、親ロシア的な勢力と、より民主的で西側諸国との連携を重視する勢力との間で政治的な対立が続いていました。この対立が顕著に表出したのが、2004年の「オレンジ革命」と2013年から2014年にかけての「マイダン革命(尊厳の革命)」です。

これら「カラー革命」は、ロシアにとって自国の勢力圏における影響力の低下、そして自国内における同様の民主化運動の波及を恐れさせるものでした。特に、ウクライナという歴史的・文化的にロシアと深いつながりを持つ大国が西側へ明確に舵を切ることは、ロシアの地政学的構想にとって大きな打撃と受け止められました。この危機感が、その後のロシアによるクリミア併合やドンバス地域への介入といった、より直接的で強硬な手段へと踏み出す背景にある重要な心理的要因の一つとなったと考えられます。ロシアは、これらの革命を通じて、ウクライナにおける自国の影響力を維持するためには、より積極的な介入が必要であるとの認識を強めた可能性があります。

オレンジ革命(2004年)

2004年の大統領選挙において、親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ候補の勝利が発表されましたが、大規模な不正選挙疑惑が浮上しました。これに対し、野党指導者ヴィクトル・ユシチェンコ候補の支持者を中心に、首都キーウの独立広場(マイダン・ネザレージュノスチ)で大規模な抗議デモが展開されました。この結果、最高裁判所は選挙結果の無効を宣言し、再選挙が行われユシチェンコ氏が勝利しました。

ロシア政府は、このオレンジ革命を西側諸国による内政干渉であり、自国の影響力を削ぐための「カラー革命」の一環と捉え、強い警戒感と不快感を示しました。ロシアのメディアも、革命を否定的に報道する傾向が強く見られました。

マイダン革命(尊厳の革命、2013年~2014年)

2013年11月、当時大統領であったヤヌコーヴィチ氏が、EUとの連合協定署名を見送ったことをきっかけに、再びキーウの独立広場で大規模な反政府デモ(ユーロマイダン)が発生しました。デモは長期化し、治安部隊との衝突で多数の死傷者を出す事態に発展しました。2014年2月、ヤヌコーヴィチ大統領はロシアへ逃亡し、ウクライナでは親西側派の暫定政権が樹立されました。

ロシアは、マイダン革命を「違法なクーデター」と非難し、ウクライナ新政権の正当性を認めませんでした。ロシア国内メディアは、革命を極右民族主義者による暴力的な政権転覆として描き、ウクライナ国内のロシア系住民の権利が脅かされているといった情報を大々的に報道しました。

4.9. 2014年クリミア併合とドンバス紛争

マイダン革命による親ロシア派のヤヌコーヴィチ政権崩壊直後の2014年2月から3月にかけて、ロシアはクリミア半島に軍事介入し、同地を実効支配下に置きました。その後、ロシアの強い影響下でクリミアの地位に関する「住民投票」が実施され、その結果に基づいてロシアはクリミア半島を一方的に併合しました。この併合は、ウクライナの主権と領土の一体性を著しく侵害するものであり、国連総会決議68/262をはじめとする国際社会の大多数から国際法違反であると強く非難されました。住民投票の正当性についても、ロシア軍の存在下で行われたこと、ウクライナの国内法に違反していることなどから、多くの国が疑問を呈しています。

クリミア併合とほぼ同時期に、ウクライナ東部のドンバス地方(ドネツク州とルハーンシク州の一部)では、ロシアの支援を受けた武装勢力が政府庁舎などを占拠し、一方的に「独立」を宣言しました。これに対しウクライナ政府軍が軍事作戦を開始したことで、ドンバス紛争が勃発しました。この紛争を解決するため、ドイツ、フランス、ウクライナ、ロシアの首脳およびOSCE(欧州安全保障協力機構)の仲介により、2014年9月にミンスク合意(ミンスクI)、2015年2月にミンスクII合意が締結されました。これらの合意には、停戦、重火器の撤退、捕虜交換、ドンバス地域の特別自治地位に関する政治プロセスなどが盛り込まれていましたが、停戦違反が頻発し、政治的項目の履行も進まず、合意は事実上形骸化しました。OSCE特別監視団(SMM)が停戦監視活動を行っていましたが、その活動も武装勢力による妨害や安全上の理由からしばしば制約を受けました。

クリミア併合とドンバス紛争は、ロシアが自国の安全保障と地政学的影響力を維持するためには、国際法や他国の主権を公然と蹂躙することも辞さないという姿勢を明確に示した出来事でした。これは、冷戦終結後のヨーロッパにおける安全保障の枠組みを根本から揺るがすものであり、国際秩序に対する深刻な挑戦と受け止められました。ミンスク合意の失敗は、対話による紛争解決の限界と、ロシアの戦略的目標が単にドンバスの地位問題に留まらず、ウクライナ全体の主権と将来の方向性に対する影響力確保にあることを示唆していました。この2014年の一連の出来事と、その後のドンバス紛争の膠着状態は、2022年のロシアによるウクライナ全面侵攻へと繋がる直接的な前段階となったと言えます。西側諸国の対応が、ロシアのさらなる強硬策を抑止するには不十分であったとの見方も存在します。

4.10. 2022年ロシアによるウクライナ全面侵攻と現状

2014年から続くドンバス地域での紛争と、ミンスク合意の履行が行き詰まる中、ロシアは2021年後半からウクライナ国境付近に大規模な軍部隊を集結させ、緊張を高めていました。そして2022年2月24日、ロシアはウクライナに対し、「特別軍事作戦」と称して全面的な軍事侵攻を開始しました。侵攻は、ウクライナ北部(首都キーウ方面を含む)、東部(ハルキウ、ドンバス地方)、南部(ヘルソン、ザポリージャ方面)の広範囲から同時に行われました。ロシアは、侵攻の目的としてウクライナの「非軍事化」と「非ナチ化」、そしてドンバス地域のロシア系住民の「保護」などを掲げました。

国際社会は、このロシアによる侵攻を国連憲章や国際法に違反する明白な侵略行為として強く非難しました。アメリカ、EU、日本をはじめとする多くの国々が、ロシアに対して金融、エネルギー、技術移転など多岐にわたる分野で大規模な経済制裁を科しました。同時に、ウクライナに対しては、武器供与を含む軍事支援や、人道支援、財政支援が大規模に行われています。

戦況は、ロシア軍による初期の電撃的なキーウ攻略の試みがウクライナ軍の頑強な抵抗により失敗した後、東部および南部での消耗戦へと移行しました。2022年後半にはウクライナ軍が一部地域で反攻に成功し、ハルキウ州やヘルソン市を奪還しましたが、その後は戦線が膠着状態に陥り、塹壕戦や砲撃戦が中心となっています。ロシアは占領地域(ドネツク、ルハーンシク、ザポリージャ、ヘルソンの各州の一部)の一方的な「併合」を宣言しましたが、国際社会はこれを認めていません。専門家による分析では、戦争の長期化、双方の兵力・兵器の消耗、そして国際的な支援の継続性が今後の戦況を左右する重要な要素として指摘されています。

2022年のロシアによる全面侵攻は、ウクライナの主権と領土を完全に否定し、ロシアが自国の勢力圏を再構築しようとする明確な意思を示したものです。これは、第二次世界大戦後のヨーロッパにおける安全保障の根幹を揺るがすものであり、国際秩序に深刻な影響を与えています。紛争の長期化は、両国のみならず、世界のエネルギー市場、食糧安全保障、経済成長にも広範な悪影響を及ぼし続けています。国際刑事裁判所(ICC)は、ウクライナにおける戦争犯罪や人道に対する罪の疑いで捜査を進めており、ロシアのプーチン大統領を含む複数の関係者に逮捕状を発行しています。

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