今戸神社の起源は康平六年(1063年)に石清水八幡を勧請して創建された今戸八幡にあり、昭和十二年に白山神社を合祀し「今戸神社」と改称。幾度もの災害による焼失と再建を繰り返し、昭和四十六年に現在の社殿が完成しました。御祭神は應神天皇、伊弉諾尊、伊弉冉尊、そして福禄寿で、武運長久や母子愛、縁結び、国土創成を象徴しています。
御祭神
福禄寿…昭和十二年一月から同年十六年頃まで七福神巡拝が行われておりましたが、戦時下となり一時中止され、昭和五十二年一月より復活されました。浅草は江戸文化発祥の地といわれ、七福神巡りの流行したのはその江戸時代からと伝えられております。福禄寿は白髪童顔の温和な容姿で、年齢は数千年といわれ、福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康にして長命)との三つの福徳を授ける福の神として、古くから人びとの尊信を集めています。
- 應神天皇(おうじんてんのう)
- 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
- 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
- 福禄寿(ふくろくじゅ)…七福神の内の一神
歴史
1063年(康平6年)に源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりである。また1081年(永保元年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたと伝わる。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、それまで今戸八幡と呼ばれていた当社が今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草名所七福神のひとつ福禄寿も祀っている。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災や、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建された。現在の社殿は1971年(昭和46年)に建てられたものである。
かつては境内に今戸幼稚園があり、宮司が園長を務めていた。今戸幼稚園は廃園となったが、正門跡が現存している。
招き猫発祥の地
当社は招き猫発祥の地のひとつとして浅草寺や浅草神社、世田谷区にある豪徳寺などとともに名乗りをあげている。
江戸時代の地誌『武江年表』または日記『藤岡屋日記』の1852年(嘉永5年)の記述によれば、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内の三社権現(三社様、現:浅草神社)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になった(丸〆猫参照)。もっとも同史料は浅草寺や浅草神社に由来するものとしての記録であり、今戸神社(旧:今戸八幡)との結びつきを示すものではない。平成の招き猫ブームと縁結びパワースポットのブームに乗り、当社は招き猫発祥の地として看板を掲げ、多くの招き猫が奉られるようになったが、本殿や境内に安置されている招き猫の形状は江戸明治期の今戸焼の招き猫とは何ら関係のないものであり、考証的には伝統的なものとは全く関わりのない、平成の産物として見る必要がある。なお、本殿に祀られている大型の招き猫や社務所から授与されている土焼き製、磁器製の招き猫ともども形状は、戦後の常滑産招き猫の造形から影響を受けたものと考えられる。
沖田総司の終焉の地
当社は幕末の著名人である新選組の沖田総司の終焉の地であると称しており、境内にその旨を記した碑が建てられている。これは、当時結核を患っていた沖田を診ていた松本良順が、当時今戸神社を仮の住まいとしていた、とすることからきている。また、新撰組隊士の永倉新八が沖田は松本宅で死亡、と書き残している。ただし当時永倉は江戸に居らず、推測または伝聞で記したものである。
現在の有力な史料においては、沖田は今戸八幡神社に間借りしていた松本の手引きにより千駄ヶ谷の植木屋の柴田平五郎宅の納屋に匿われており、同地で死亡した、とするのが定説である。
アクセス
ご祭神 | 《合》伊弉諾尊,伊弉冉尊,《主》応神天皇 |
名称 | 今戸神社 |
読み方 | いまどじんじゃ |
参拝時間 | 9:00〜17:00 |
トイレ | なし |
御朱印 | あり |
電話番号 | 03-3872-2703 |
ホームページ | https://imadojinja1063.crayonsite.net |
住所 | 東京都台東区今戸1-5-22 |
最寄り駅 | ◼︎東武伊勢崎線 とうきょうスカイツリー駅 徒歩約25分 ◼︎東京メトロ銀座線 浅草駅 ◼︎東武伊勢崎線 浅草駅 徒歩約25分 ◼︎都営浅草線 本所吾妻橋駅 徒歩約27分 |
参考


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