幕末の思想家である吉田松陰をお祀りしている神社で、境内には松下村塾を模した建物や、吉田松陰の墓碑。伊藤博文、木戸孝正などが寄進した26基の燈籠があります。
ご祭神 吉田松陰先生について
吉田松陰(1830-1859)は長州藩(現在の山口県)萩で生まれました。本名は矩方、通称寅次郎です。父杉百合之助の影響で幼い頃から「論語」「孟子」などの中国古典を学び、叔父の吉田大助と玉木文之進から教育を受けました。大助が早くに亡くなったため、文之進の後見で6歳の時に吉田家を継ぎました。
文之進の厳しい教育の下、松陰は早熟な学問的才能を発揮し、11歳のときには藩主毛利慶親に武教全書を講義しました。さらに学問を進め、18歳で林真人より兵学の免許皆伝を受け、22歳で最高の免許を取得しました。
松陰の学問は西洋文明にも及び、日本を守るために必要だと考え、西洋の兵学を学びました。1850年には九州平戸に遊学し、陽明学者の葉山佐内と親交を深めました。翌年、江戸留学を命じられ、佐久間象山に師事しました。
その後、友人の江帾五郎の仇討ちに協力するため過書(身分証明書)なしで出発し、結局仇討ちは失敗しました。そのため、浪人となり身分を失いましたが、藩主の特別な計らいで諸国遊学の許可を得ました。江戸で勉学に励み、ペリーの黒船を見学し、海外渡航を試みましたが失敗し再び投獄されました。
1859年、萩に戻され野山獄に投獄されましたが、日本の将来を案じて約600冊の本を読み、獄中で勉強会を開きました。1855年には杉家に戻り、松下村塾を開き、多くの若者を教育しました。塾生には後の明治維新に活躍した伊藤博文、野村靖、山縣有朋などがいました。
幕府に対する活動を行い、再度投獄され、30歳で処刑されました。松陰は常に日本の将来を考え、学問と行動を通じて多くの人々に影響を与えました。
松陰神社鎮座のご由来について
吉田松陰先生は安政6年10月27日、安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文、等によってこの世田谷若林の地に改葬されました。神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで大夫山と呼ばれていたそうです。
明治15年11月21日松陰先生門下の人々が相謀り、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り忠魂の鎮座するところとなりました。今日の社殿は昭和二年から三年にかけて造営されたものです。近年は学問の神として崇敬を集め参拝者は全国各地に及んでいます。
吉田松陰先生の年表
- 1830年
文政13年誕生長門国萩(現:山口県萩市)松本村で、杉百合之助の次男として生まれる
幼名は寅之助 - 1834年
天保5年叔父・吉田大助の養子となる山鹿流兵学師範である叔父・吉田大助の養子となる
- 835年
天保6年吉田家を継ぐ養父・大助死去により、吉田家を継ぎ、大次郎と改名
- 1839年
天保10年明倫館兵学教授見習となる9歳で長州藩校・明倫館の兵学教授見習となる
- 1841年
天保12年藩主・毛利敬親に兵学講義を行う11歳で藩主・毛利敬親に御前講義を行う
その才能を高く評価される - 1842年
天保13年松下村塾に入門叔父・玉木文之進の松下村塾に入門する
- 1848年
嘉永元年明倫館兵学師範となる19歳で明倫館兵学師範となる
家督を継いで独立 - 1850年
嘉永3年九州遊学九州各地を遊学し、見聞を広める
- 1851年
嘉永4年江戸遊学、東北遊学江戸で佐久間象山に師事し、東北地方を遊学する
- 1854年
嘉永7年ペリー艦隊への密航を試みるも失敗、投獄ペリー艦隊への密航を試みるも失敗し、野山獄に投獄される
- 1855年
安政2年預かりの身となる野山獄から解放され、実家の杉家に預かりの身となる
- 1857年
安政4年松下村塾を再開松下村塾を再開し、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら多くの門弟を育てる
- 1858年
安政5年老中間部詮勝暗殺計画、再投獄老中間部詮勝の暗殺計画が発覚し、野山獄に再投獄される
- 1859年
安政6年江戸に送致、処刑江戸の伝馬町牢屋敷に送致され、安政の大獄により処刑される。
享年30(満29歳没)
境内案内
吉田松陰先生像

大熊氏廣作(鋳造:平成25年 ブロンズ)
明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。もとの石膏像は品川彌二郎等の助言を受け数度の改作の後、松陰先生親族等の満足を得るに至り完成したと伝えられています。当時銅像の建設を模索しましたが叶いませんでした。
松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこないました。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式が行なわれ境内に安置されました。
神楽殿

昭和7年、旧府社に昇格する際、毛利家より寄贈されたものです。平成12年には大改修され増築されました。
手水舎

現在の社殿と共に、昭和2年(1927)門下生であった明治の元勲其の他の崇敬者により造営されたものです。
松下村塾

松下村塾は1842年、玉木文之進が開いた寺子屋が始まりです。公務多忙時は久保五郎左衛門が塾長を務めました。吉田松陰は1852年と1855年から1857年にかけて教育活動を行い、安政5年(1858年)には藩主から山鹿流兵学の教授許可を得ました。
松下村塾は短期間で多くの逸材を育成し、約90名の塾生が明治維新に貢献しました。代表的な塾生には久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文などがいます。
石灯籠


境内には毛利元昭公を始め、先生門下の伊藤博文、山縣有朋等の縁故者より奉献された32基の石燈籠があります。その燈柱に刻されている文字は書家竹山先生の所謂、八分隷書体に成るもので貴重な文化財とされています。
松陰先生他烈士墓所

境内墓域には、吉田松陰先生の墓碑をはじめとして、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進、綿貫次郎輔、中谷正亮、其の他烈士の墓碑があります。 文久三年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓(紅葉)の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所としました。同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年十一月、福原乙之進を埋葬。 禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって松陰先生以下の墓は破壊されましたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑を建立しました。 明治2年整武隊長官が鳥居より墓前に至る道に石を敷いて参拝に便ならしめ、かくして墓域は完成し、忠魂の鎮座することとなりました。
アクセス
休務日があり必ず公式HPから社務所休務日カレンダーをご確認ください
https://www.shoinjinja.org/access/#calender
公式サイト | 松蔭神社 |
住所 | 〒154-0023 東京都世田谷区若林4-35-1 |
神社開門時間(参拝可能時間) | 午前7時~午後5時(通年) |
お守り、お神札受付時間 | 午前9時~午後5時(社務所休務日を除く) |
ご祈祷(社殿でのお祓い)受付時間 | 午前9時~午後3時50分(恒例祭典時及び社務所休務日を除く) |
電話番号 | 03-3421-4834 |
電車 | 東急世田谷線松陰神社前駅下車、松陰神社通り商店街を北へ徒歩約3分 |
参考

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