社伝によれば、寛治6年(1092年)に平武綱によって創建された。前九年の役・後三年の役で源頼義・源義家父子に従って戦った平武綱は河崎基家と称された。基家の子である渋谷重家は堀河帝より渋谷の姓を賜り、渋谷城(現在の金王八幡宮)を築いて渋谷氏の祖となった。
歴史と由緒
渋谷駅から徒歩わずか5分、渋谷警察署の裏手に鎮座する金王八幡宮は、渋谷の地名の由来ともなった渋谷氏の祖先によって創建されたと伝わる古社です。その歴史は古く、寛治6年(1092年)の鎮座とされています。渋谷氏に生まれた渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)の誕生譚も伝わり、子育てや出世開運のご利益でも信仰を集めてきました。現在の美しい社殿は、三代将軍・徳川家光の代に、その乳母である春日局と守役の青山伯耆守忠俊によって奉納されたもので、渋谷区最古の木造建築として大変貴重な文化財に指定されています。境内には源頼朝公が金王丸の名を後世に伝えるために鎌倉から移植したと伝わる「金王桜」があり、一重と八重の花が混ざって咲く珍しい桜として知られ、渋谷区指定天然記念物にもなっています。この桜は、訪れる人々の目を楽しませる見どころの一つです。
金王丸
渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三重家の子で、永治元年(1141)8月15日に生まれました。
重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。
金王丸17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせました。続く平治の乱(1159)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔いました。(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。
壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じました。昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。
昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。
金王丸の名は平治物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記、吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれます。
そして金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになりました。
当八幡宮に伝わる「毒蛇長太刀」は金王丸が所持していたもので、長田の館の奮戦で「鉾先に向かいその刃風に触れる者生きて帰る者なし、鰐口は遁れるとも毒蛇の口は遁れ難し」と言ったことにより名付けられました。
当八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。
渋谷氏の後裔は全国各地に連綿と続いておりますが、明治の元勲東郷平八郎元帥も渋谷氏子孫の一人です。金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で特別開帳されます。
渋谷山 東福寺
となりに渋谷山 東福寺がある
アクセス
ご祭神 | 《主》応神天皇 |
ご神体 | 甲冑馬上八幡像 |
創建時代 | 寛治6年(1092) |
創始者 | 源義家 河崎基家(澁谷家祖) |
本殿 | 権現造り |
文化財 | 社殿(渋谷区指定有形文化財) 神門(渋谷区指定有形文化財 算額(渋谷区指定有形民俗文化財) 大江山鬼退治図絵馬(渋谷区有形民俗文化財) 金王桜(渋谷区指定天然記念物) |
名称 | 金王八幡宮 |
読み方 | こんのうはちまんぐう |
参拝時間 | 受付時間 9:30~16:30 |
御朱印 | あり |
電話番号 | 03-3407-1811 |
ホームページ | https://www.konno-hachimangu.jp/ |
住所 | 東京都渋谷区渋谷3-5-12 |
行き方 | ◼︎東急田園都市線 渋谷駅 徒歩約8分 ◼︎東急東横線 渋谷駅 ◼︎東京メトロ副都心線 渋谷駅 徒歩約9分 ◼︎JR湘南新宿ライン 渋谷駅 ◼︎相鉄・JR直通線 渋谷駅 ◼︎JR山手線 渋谷駅 ◼︎JR埼京線 渋谷駅 ◼︎京王井の頭線 渋谷駅 徒歩約11分 |
参考

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