吉原神社でお祀りしているのは、弁財天です。
吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などのご神徳です。
御祭神
吉原神社は、かつての吉原遊廓にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊廓に隣接する吉原弁財天の合計6つの神社(神さま)がおまつりされており、それぞれ以下の御神徳をお授けくださいます。なお吉原弁財天は吉原神社と吉原弁財天本宮の2ヶ所におまつりされています。
- 九郎助稲荷(縁結び・五穀豊穣・所願成就の神さま)
- 吉徳稲荷(縁結び・家内安全・商売繁盛・五穀豊穣の神さま)
- 榎本稲荷(家内安全・商売繁盛・五穀豊穣の神さま)
- 明石稲荷(火災除け・町内安全の神さま)
- 開運稲荷(開運・幸運・幸福を招く神さま)
- 吉原弁財天(開運・財運・歌舞音曲芸能上達・弁舌の神さま)
ご由緒
吉原遊廓とともに歩んできた神社です。吉原遊廓は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1667)に当時は竜泉寺村とよばれていた現在地に移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
この「新吉原」には廓の守護神として五つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である大門(おおもん)の手前に「吉徳稲荷社」、さらに廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。
その後明治14年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられました。当初は吉徳稲荷社旧地にお祀りされていましたが、関東大震災にて焼失。震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀りしていましたが、昭和9年に現在地へ新社殿を造営、そのさい新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。その後昭和20年の東京大空襲で惜しくも焼失しますが、昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。
歴史
元和3(1617)年、徳川幕府の命によって、江戸市中各地に散在していた遊女屋は日本橋葦町あたりに廓として統合されました。これが「江戸元吉原」です。
その後、明暦3(1655)年の大火のあと千束村に移転を命ぜられ、そこに新しく造られたのが「新吉原」ということになります。
新吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られておりました。
この五社が明治5年に合祀されることになり「吉原神社」として創建されました。吉原神社の歴史は新吉原遊郭のそれと折り重なり、廓の鎮守の神として古くから崇敬されてきました。
五社のなかでも 九朗助稲荷社の創建は古く、和同4(711)年、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助という人の手で元吉原の地に勧請されたのがはじまりとされています。そして廓の千束村への移転にともなって浅草新吉原の地にふたたび勧請されました。
アクセス
ご祭神 | 九郎助稲荷、吉徳稲荷、榎本稲荷、明石稲荷、開運稲荷、吉原弁財天 |
創建時代 | 明治14年(1881)に五社の稲荷を合祀して創建 |
名称 | 吉原神社 |
読み方 | よしわらじんじゃ |
参拝時間 | 午前10時から午後4時 |
トイレ | なし |
御朱印 | あり |
ホームページ | http://yoshiwarajinja.tokyo-jinjacho.or.jp/ |
住所 | 東京都台東区千束3丁目20-2 |
行き方 | 地下鉄東京メトロ日比谷線 三ノ輪駅 徒歩15分 |
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