浅草寺

観光

浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号する。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音(あさくさかんのん)として知られている。山号は金龍山。 元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立して聖観音宗の本山となった。都内では坂東三十三観音唯一の札所(第13番)、また江戸三十三観音札所の第1番でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に入っている。

本尊真言:おん あろりきゃ そわか
ご詠歌:ふかきとが今よりのちはよもあらじ つみ浅草にまいる身なれば

創建伝説 – 観音様が流れ着いた奇跡

西暦628年、隅田川で漁師の兄弟が「黄金の観音像」を発見。たった5.5cmの秘仏を祀る草庵が、浅草寺の原点です。

3大ミステリー

  • 像は埼玉・岩淵の観音堂から洪水で流された説
  • 僧・勝海が「絶対秘仏」のルールを確立
  • 平安貴族も通った「東京初のパワースポット」

知られざる事実

🔸「おみくじ発祥の寺」説あり
🔸 鳩職人たちが関東大震災で寺を火災から守った
🔸 羽子板市の起源は疫病除けのまじない

歴史

浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。

創建 – 平安時代

浅草寺の始まりは推古天皇36年(628年)、宮戸川で漁をしていた兄弟が網にかけた観音像を供養したことに由来します。大化元年(645年)、僧・勝海が本尊を秘仏とし、天安元年(857年)には円仁(慈覚大師)が「お前立ち」を造像。この頃から浅草寺の信仰が広まりました。

中世 – 近世

浅草寺は『吾妻鏡』に初めて登場(治承5年・1181年)。徳川家康が江戸入り後、祈願所として五百石を寄進し、伽藍の再建を推進。仲見世商店の設置や庶民の娯楽場として発展し、江戸時代中期には演劇なども盛んに行われました。

近代

1873年(明治6年)、境内が公園地に指定。1885年には仲見世が煉瓦造りに変わり、1890年に12階建ての凌雲閣が完成。その後、関東大震災では一部建物の被害のみで復旧。東京大空襲では本堂と五重塔が焼失するも、戦後復興を遂げ、浅草のシンボルとして現在も多くの観光客を魅了しています。

アクセス

ご本尊聖観世音菩薩(秘仏)
山号金龍山
宗旨・宗派聖観音宗
創建時代628年(推古天皇36年)
開山・開基開基:勝海上人 中興開山:慈覚大師円仁
本堂和様三手先 入母屋造り
名称浅草寺
読み方せんそうじ
参拝時間6~17時(10~3月は6時半に開堂)
参拝にかかる時間30分
トイレ宝蔵門横、五重塔横、本堂裏手
御朱印あり
・ご本尊である「聖観世音菩薩」の御朱印
・浅草七福神めぐりの「大黒天」の御朱印
お申し込みは、本堂西側(正面向かって左側)にある影向堂でお受けしております。
御朱印帳に直書きあり
電話番号03-3842-0181
ホームページhttps://www.senso-ji.jp/
住所東京都台東区浅草2-3-1
行き方東武スカイツリーライン 浅草駅
東京メトロ銀座線 浅草駅
つくばエクスプレス 浅草駅
都営地下鉄浅草線 浅草駅A4出口
 徒歩5分

ソーシャルメディア

参考

聖観音宗 あさくさかんのん 浅草寺 公式サイト - 浅草寺
浅草寺の縁起 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけ
浅草寺 - Wikipedia

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